きもちの日記

日常綴る

検査結果

3週間ほど前の年末に検査結果を聞きに。

ドキドキしながら聞いてみると

結果は、中等度異形成だった。

 

この病院の場合、

軽度異形成なら経過観察

高度異形成なら手術

 

の方針らしく

中等度の場合、今あるウイルスがハイリスクHPVなのかどうかを検査して、それ次第の対応となった

 

そのため、再度坊ちゃんを抱っこしたまま内診台へ

 

結果は年明けで再度2週間後に

 

最終的な結果までどんだけ待たされるんだ、と思いつつ。

 

そして今日その結果を聞きに行った

 

手術も覚悟したけど、結果はハイリスクHPVはいなかったとのことで。

 

半年後に再度きて検査しましょうとのことで

経過観察へ

 

調べてみると、70〜80%は自然消滅するとのことで

 

その70〜80%側の人間でありますように。

 

もう祈るしかないね

大病院での検査

再検査が必要とわかってから、約3週間後の検査日。

検査までの期間、無意識にネットでいろいろ調べてしまい一喜一憂する日々を過ごした。

 

可能性として、まだ癌ではない可能性もあるわけなので今は神頼みだと思い、近くの神社にお参りした。

神社に行ってから検査日までは、不思議とこのことを考えずに穏やかに過ごせた。

そもそも、検査前に何かと不安がっても何も変わりはしないのだから、変な話ではある。

 

病院に検査に行くと、まず、大病院の迫力に圧倒された。

門構え、行き交う人の多さ、病棟の多さ、敷地の広さ

いわゆる大病院に足を踏み入れたのが、人生で初めてだった。

 

受付の数や、自動精算機、広さから、空港を連想するほどだった。

 

行き交う人々を見ながら、なんだか自分の不安がちっぽけに感じた。

 

「あの人はどんな病気でここを訪れてるんだろう」

そんなことを思ったからなのか。

これだけの人が何らかの病気を抱えて、ここにいるわけなんだから、今日診てくれる先生は私のことなんか、何千人?何万人?いる患者のうちの1人なんだよなー、と。

 

こんなにも不安なのだけど、冷たい対応されるんだろうなー、と思っていた。

 

受付から検査までには、予約をしていたにも関わらず2時間くらい待たされた。

まあ、病院とはそういうものだ。

 

内診台にあがる前に、先生に状況をいくつか聞かれ、説明を受けた。

思いの外、丁寧に説明してくれた。

 

今出ているHSILというものが、癌よりこれだけ前の段階のものなんだ、というのを強調するように図解を交えて話してくれた。

淡々とはしていたけども、不安な心情を察し、励ましてくれているように感じた。

 

実際、誰にでも同じ説明をしているんだろうけど、こちらの無知な質問に対してもしっかり目を見て回答をくれて、人から診察してもらっている心地を感じられた。

 

内診は、3ヶ月の我が子を抱っこ紐で抱えたまま受けた。ベビーカーに乗せてもよかったけども、気持ちよさそうに寝ていたので、看護師さんがそう提案してくれた。

 

細胞診と組織診をしたため、内診特有の痛みと、初めての組織診で出血もあった。

 

痛かったのだろうけど、お腹の上で我が子が寝息を立てていたのでなんだか気が和んだし

何より、この子がいるのに弱気になってられん!という気持ちになった。

 

内診台からおりて、再度先生と向かい合って話をした。

「そんなに怪しげな所見はなかったですけどねぇ。」と

ひとまず検査結果を待ってみましょう、と。

 

病院の先生の言葉って、魔法だよなあと思う

 

何も処方はされてないのだけど、元気になった。

結果は、また2週間待ち。

 

「これが癌になるには5年、10年をかけて、なんです」

 

それくらいの進度なのだから、検査も結果もお医者さんにとっては急がないんだね、と納得した。

 

その説明のせいか、結果まで時間かかるけど、再検査の結果がきたときほどは長いと思わなかった。

 

まだ何もわかってないのに、なんだかホッとした気持ちになってカフェでパスタとケーキまで食べて家路についた。

 

結果を聞きに行く日、旦那にもきてもらおうと考えていたけど、なんとなく、1人で行くことにした。

 

 

 

 

 

子宮頸がんの可能性、、?

昔から今が幸せすぎると、今後が不安になる性格ではあった。

 

これまで綴ってきたことも、とにかくこのハッピーな気持ちを記録しておこう!と暇つぶしで始めたものだった。

旦那との馴れ初めから書いていきたい、と思った手前、過去のことを思い出しながら書いていて、結局、いつものように三日坊主になって更新を止めてしまっていた。

 

過去の記録は、もうやめて、やっぱり「今」の気持ちを綴っていくべきだし、今そうしたいと思って書いている。

 

結婚して、長女を授かって、実家のある地元に引っ越しをして、中古マンションを買って、長女の出産を乗り越えて、愛しい日々があっという間に過ぎていって、

長女は保育園にも慣れ、その後すぐに長男を授かり、仕事復帰を少しだけして、産休育休を経て、、

 

夫も育児には本当に貪欲で、家族優先をしてくれるので

大変ながらも、本当に幸せな日々だ。

 

なのに、

とりあえず、と思って受けた健康診断の結果で急に子宮頸がんの疑いで、精密検査、ときた。

育休中の健康診断は、自己判断?で受けるようでなんとなく、自ら問い合わせをして健康診断を受けに行った。

早めに知れてよかったよね、と他人には気休めながらにそう言えるが、当事者になるとこんなに不安になるのか、と。

 

HSILという診断結果。

ネットで調べてみると

細胞の異変の進行が初期よりも進んでいる状況とある。

そもそも、昨年の今頃の検診結果では異常なしだった。

こんなに急に、ガンの一歩手前まで行くものなのか。

そもそも、健康診断の2ヶ月前に出産してるんですけど。長男には何の影響もないのか?

 

不安な気持ちを日中は抑えているが、深夜、長男の授乳で起きるたびに、思い出してしまう。

私の体に、よくないことが起きているのか、、?

 

病院というのは、このような当事者の心情には反して、悠長に調整をしてくる。

2人を産んだ産婦人科に行くと、県内の大病院を紹介され、3日ほど待つと、検査の日程が2週間後に決まった。

検査の結果はそのまた1週間以上後だという。

 

どこも忙しいのだから仕方のない話なのだが、その間の進行が怖くて自己中な考えになってしまう。

 

ガンの保険だって入っている。

なのに、おかしな話で、ガンなんて自分とは無関係と思っていた。

 

毎晩、私の両隣で眠る愛しい我が子をみて、

ずっとそばにいて成長をみていたいと願う。

もし、手術になったら?

 

夫には立て続けの妊娠出産で、行為に長らく我慢をしてもらっている。また、それが遠のくのでは?

 

こんな気持ちを吹っ飛ばせるような結果が出ることを願っている。

 

集団検査だったので、検査の手違いがあって本当は正常だった

 

そうであってほしい

 

 

結婚式キャンセル料に50万円ほど

 

浮き沈みがあってこそ、人生であろう。

ここまで自慢のようにつらつらと順風満帆な様子を描いてきた。

ここで一つ沈みを記す。

 

コロナ禍の結婚式ーーー

 

延期に延期を重ね、細心の注意を払って開催した人

やむを得ず規模を縮小して開催した人

いまか今かと時機を見計らっている人

 

 

そう珍しくない話だ。

私たちは、言うまでもなく結婚式を諦めた夫婦のひとりである。

 

 

地元県に戻ってきて住む家にも慣れてきた頃、結婚式を計画し始めた。

東京で籍も入れてきたわけなので、

「今更だけど、結婚式します」というような式の日取りだった。

 

いくつか見学しようとしていたが、最初に行った式場に決めた。

二人とも呼びたい友人のほとんどが県外からということもあり、駅に近いアクセスを重視した。

 

一歩足を踏み入れると、

街からそう離れてはいないのに、緑を感じられる。

仰々しさのない自然な雰囲気も気に入った。

 

思い立ったら即行動の二人。

今思うと、ここが災いしたのかもしれない。

見学したその日に、契約を交わした。

 

この日から数ヶ月経って、ダイヤモンド・プリンセス号のニュースがワイドショーを騒がせた。

 

自分とは関係のない話。

 

それが刻一刻と、自分たちの日常にも陰をもたらしていく。

 

 

マスクなしでは外に出られなくなり、仕事はリモートワークに移行した。

有名人の突然の訃報、親族でさえ会うことを躊躇する日々・・

 

 

結婚式といえば人生で最初で最後と言っていいほど、手放しに祝福を浴びる場。

こんな状況の中で挙げられるほど、能天気ではない。

 

県外から友人を呼ぶわけにもいかない。

高齢の親族をリスクに晒すわけにはいかない。

 

 

照らす太陽のもとビールが美味しい季節から、暖かく柔らかな陽気を感じられる春に延期を依頼した。

 

 

しかしながら、事態は私たちの準備する気力を蝕むように深刻になっていく一方だ。

私たちの住む県にも緊急事態宣言が発出された。

 

毎日コロナ感染者数を知らせるワイドショー。

山あり谷ありのグラフに一喜一憂する。

 

 

式の日取りは近づいてくるのに、楽しみよりも心配が上回る毎日。

それに嫌気がさし、ついに式のキャンセルを検討する。

 

 

あの時、意気揚々とサインした契約書を引っ張り出す。

「キャンセル料金」の欄を何度も何度も読み返す。

 

 

コロナは「天変事変」に値しない・・よな・・?

今回のキャンセルは「お客様のご都合によりキャンセルされる場合」になる・・よな・・・?

 

 

世の中が初めて経験するコロナ禍。

契約の文面には、今回のようなケースは想定されていないような書き方だった。

 

事態がいつ好転するか、悪化するか、

誰にも予想がつかない状況下。

 

もし、開催したとして自分たちの式でクラスターなんか起きたら・・・

 

 

いや、待てよ。

クラスターが起きると、必ずニュースで取り上げられている。

式場の名前が出たらマイナス広告になりうるはず。

そのようなリスクを式場側も抱えているわけだーーー

 

 

ちゃんと話せば

キャンセル料を全額請求されることは、ないのでは。

 

 

当初は、そんなポジティブな可能性を抱いていた。

 

 

が、式場の担当者と話をするにつれて、雲行きは怪しくなる。

キャンセル料は通常、式当日から何日前かによって支払うべき%が変わる。

もちろん、挙式日が近づくにつれて支払額、いわゆるペナルティーは高まるわけだが、この点が私たち夫婦側の論点だった。

 

 

当初の予定は7月挙式。

延期は翌年4月。

 

延期予定の月から換算すると、半年以上先のことだったのでキャンセル料は発生しない契約文面だった。

 

ところが、

式側の主張ではキャンセルの場合は当初の挙式予定月から換算する、と。

 

 

私たちはこの結論にどうしても納得がいかず、弁護士にも相談することにした。

相談料はもちろん発生するがこれも勉強のうちかな、というのが夫婦の考えだった。

 

 

 

担当弁護士は、私たちと同年代か少し上に見える若い男性だった。

日常ではあまり目にしなくなった、シャキッとしたスーツに弁護士バッチが光っていた。

 

 

初めて弁護士なるものと対峙をして、怯みそうになった。

 

ここで甘く見られてはいけない、

と敵ではないはずの相手に謎の闘志を燃やし、

論点と契約文面の矛盾、ネットで得られた情報などを一通り私から話した。

 

「許せないですね」

 

弁護士からの第一声に、ドラマで作り上げられたドライな印象が一変した。

勝ち筋はなくはないが、厳しい戦いになりそうだとのことだった。

ひとまず、彼に託しみようと依頼をした。

 

 

まあ、タイトルで結論は出ているので長々書くつもりはない。

結果としては、式場側の弁護士からの門前払いを受けたような形に終わった。

流石に裁判までいくのは、、と誰もがここで諦めるのだろう。

 

 

式場のキャンセル料ーーー

 

とあるネット住民から見れば、自己都合キャンセルなのだから上述のような話はただのクレーマーだと揶揄された。

とある式場関係者は、我々夫婦の歯痒い思いに共感しつつも、契約上、仕方のないことなのだと、諭された。

 

 

見栄を張れば、特にこれが家計に響いたわけでもない。

人生で1番と言っていいほどの晴れ舞台になるはずだった式を挙げることなく、散った50万。

 

 

素敵な旅行ができていたかもしれないし、

変わり映えのない生活費に淡々と消えていたかもしれない。

 

 

あれから、式場への恨み辛みも去った頃

子どもを授かった。

 

 

完全に時機を見失い、今更、呼ぶ予定だった人たちを集めるのもなんだか億劫だ。

私はもう、結婚式という形を経験することはないのだろう。

 

でもいつか、

子どもも一緒にドレスアップして何かしらをしよう。

 

抱いた無念を晴らせるように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

脱 仕事人間

  

 

結婚する前の私は、仕事しか専念できるものがなかった。
仕事は楽しいし、仕事しかすることがないのだから、残業も苦じゃない。

そんな毎日だった。

  

帰る時間を伝えていても、その時間通りに帰宅できることはほとんどなかった。

彼はそんな私を時に叱りもした。

  

とは言いつつ、当時の彼も仕事柄、朝から晩まで長時間労働をこなしていた。

ずるずると仕事を続けてしまう、そんな私を理解はしてくれていたわけだ。

 

  

帰郷計画による地元での勤務開始により、私たちの働き方は一変した。

o-komugi.hatenablog.com

 

と、いうより日常生活における仕事の優先順位が変わった。

 

 

東京から離れたことで、なんだか時間の流れが緩やかになった。

すれ違う人もそんなに急いでいない。

  

 

同時に世間はコロナ禍となり、在宅勤務が日常となった。

こちらに帰ってきてからは通勤も加味して、ひとまず2Kの賃貸物件に入居していた。

よって、夫とはほぼ隣り合うように仕事をしていた。

 

違う会社で別の仕事をしているのに、同じ空間にいる。

とても面白い経験に思えた。

職場の人間とは直接会うことがなくなったが、夫と共にする昼休憩が良いリフレッシュになっていた。

    

お互いの仕事上の声は筒抜けなわけだが、それぞれに集中しているので思うほど支障はなかった。

   

 

家で仕事ができるようになると、物理的な「退社」はないので自主的な切り替えが要となる。

PCを閉じて、目の前のキッチンで食事の支度。

支度が面倒な時は外食。

 

寝るまでの時間は録画したお笑いを見たり、映画を観たり。ゲームをしたり。

閉鎖的なコロナ禍ではあったが、充実感ある私生活だった。

 

 

よく聞く話だが「残業をしない」「昼休憩はちゃんととる」と決めると、驚くほど仕事の質が上がった。

1分1秒が惜しくなるので、良い意味で自分がすべき仕事や作業を選べるようになる。

 

  

私生活が充実しているからか、仕事に対するモチベーションの波がなくなった。

それが業績にも現れるのか、安定した中堅社員になれた気がした。

     

    

結婚を機に、「仕事だけ人間」を脱せたようだ。

 

子育てするなら、地元で

 

 

子育ては地元に戻ってしたい≒(できれば)東京では子育てをしたくない

 

 

という価値観の合致は、
出会いを同じ県出身者に絞った、という点も深く関係しているだろう。

o-komugi.hatenablog.com

 

とはいえ、お互いに27、8歳という働き盛りではあったので、こうした決断ができたのは本当に良縁だったと思う。

 

そもそも夫は、(私が知る限りの)同年代男性の中では珍しく
「良い人がいればすぐにでも」と、結婚願望があった。

 

理由を尋ねると、
「年が離れた妹がいて、高齢出産だったお母さんが大変そうだったから」と言った。

なんとも「女性」に対して理解がありそうな人だなあ、と好印象だったことを覚えている。

 

私たちは逆算して考えた。

 

このまま東京で新婚生活をして妊娠した、として東京で産むのか?

産んだとして、今いる一人暮らし部屋で一時の育児生活をする?

赤ちゃんと共に引っ越し作業・・?

 

 

色々考えれば考えるほど、タイミングは明らかだった。
私は勤務先で転勤交渉、夫は転職活動を始めた。

 

 

私の場合は、転職したばかりだったこともあり転勤を選んだ。
会社の拠点が地元に在ったため、交渉は比較的にスムーズに進む。

 

当時の上司が良き理解者だったことはもちろんだが、やっと仕事の成果が出てきた頃だ。

「関東以外のエリア活動に尽力したい」という名目がうまく作用した。

 

 

一方、夫はハードワークの中、初めての転職活動でてんやわんやだった。

 

仕事中心の生活に終止符を打ちたい、とどこかで考えてはいたらしく、転職する決意は早かった。

 

 

東京本社ではあっても、地元拠点で勤務させてくれる会社に絞って探していた。

 

どんな仕事に就きたいか、就くべきか。

自分の働く上での優先順位は何なのか。

 

当初は慣れない転職活動で苦戦していたものの、面接が進み出せば流石だった。

気づけば複数社から選べる立場になっていた。

 

 

色々と悩んで、私生活(家族)を大事にできそうな会社を選んだそうだ。

 

 

と、まあ、

とんとん拍子に帰郷計画は進んだ。

されど、変動要素に富んだ転勤と転職である。

 

地元での勤務開始には少々のタイムラグが生じ、2ヶ月近い遠距離生活になった。

 

 

たかが数ヶ月、と笑われそうだが
新婚のさなかに再度、独りの部屋に戻されたのだ。
反動による寂しさが押し寄せた。
毎晩のテレビ電話が互いの寂しさを埋めた。

 

当時よく頭に浮かんでは消えていた
会えない時間が愛 育てるのさ、というフレーズは郷ひろみの曲らしい。

 

 

この距離と時間を経て
夫が、自分にとってかけがえのない存在になったのだと痛く感じられた。

 

思い立ったら即行動の性格

 

即行動な性格は、二人のもう一つの共通点だ。

 

 

私の場合、誰かに相談をしているうちは本当は動く気がないのだと思う。

自分の直感で良いと思えば、とにかくすぐに実行した。

 

こうしよう、と思い立つと同時に動いている。

家族を含め、周囲は驚く間もなく、済んだこととして私の変化を受け入れるしかなかった。

無論、私を知る人であれば後から何を言っても、もう聞く耳がないだろう、と諦めを持っていた。

 

 

何歳(いつ)からこうだったかは定かではない。母はこれを母自身にはない性質だ、と言い、常に肯定してくれた。

母が育んだ自己肯定感なるものが、私の行動力に水を注ぎ続けた結果が今の私であるわけだが。

母については、ここでは語りきれない。また後日、触れるとしよう。

 

 

 

タイトルに話を戻す。

前の日記で話した結婚指輪が一つの例だ。

 

一緒に指輪を手作りしたわけなので、プロポーズもまだ。

親への挨拶もまだ。もちろん、籍を入れる日さえ決めていなかった。

 

 

そもそも、「結婚」なんてドラマの中の話であって、いざ自分たちの現実になると「正しい順序」なんか知らなかった。

 

 

いざ指輪を手にすると、なんだかいろんなことをすっ飛ばしているような心地がして、その足でゼクシィを買った。

とりあえず、ゼクシィを買ったわけである。なんとも、CMの刷り込みは恐ろしい。

 

たまたま特別号だったようで漫画雑誌のように分厚かった。

 

結婚はそんなに軽いもんじゃないからね、

と、やけに重たいそれに発破をかけられるようだった。

 

 

 

まずは、籍を入れる日にちを決めた。

特に意識したい日取りはなかったため、都合が良さそうな「大安」を選んで、6月15日になった。

 

 

その日まで1ヶ月の猶予もない頃にお互いの家族に報告した。

二人とも東京に出てきているので、すぐに会える距離ではない。

 

 

大の大人が決めた事ではあるが

流石に結婚、となると両の親ともに驚きと心配を露わに、待ったを掛けた。

彼氏彼女として紹介する機会さえなかったので、当たり前の反応だろう。

 

 

それでも、一度決めたことは譲りたくない性分。

短期間の中で、どうにか親族への挨拶まわりを決行。

親族に初めて会う場で、婚姻届の証人欄にサインをもらった。

 

 

世間がコロナ禍になる以前の話にも関わらず、

親同士の顔合わせもないままに、籍を入れているわけだ。

今思うと、「正しい順序」をひっくり返したような段取りだったなと思う。

 

 

「本当にいつも、急よねぇ」

 

そう、各々が自分の親から呆れ気味に呟かれる。

つくづく似た者同士なのだと感じとった。

 

最終的には両親族とも祝福してくれて、家族になる実感が湧く時間を過ごした。

 

 

 

籍を入れると、次は

自分たちの住まいがこのまま「東京」で良いのか、という話題になる。

 

 

とはいえ、夫も私も、子育てするなら地元(≒東京ではない)という共通の意思があり、すぐに決着する。

 

 

そう、思い立ったたら即行動だ。

時期を待たずして、綿密な帰郷計画が遂行されることとなる。