金銭の感覚が物を言う
一般的な会社員が1日の大半を費やして得るお金。
これを何に使うか、という点はその人の価値観を最大限に表す気がする。
生まれ育った環境をも反映していそうだ。
消費されるモノやコトには、大なり小なり松竹梅の階級がある。
お金を「何に」「どれだけ」使うか、
独身時代にはシンプルだったことが結婚生活では火種にもなりうる。
私たちの共通点は、俗に言う高級ブランドには関心がないことだった。
一方、異なっていたのは、夫は「物持ち」が良いことだった。
夫は、高級ブランドを自身のステータスとして身につける思考はない。
ただ、長く使うような用途のモノにはしっかりとお金をかけて大事に大事に使う。
家電はもちろん、身につける物はほとんどそうだ。
対して私は、根本が貧乏性。
後先考えず、安価なモノを短いサイクルで使い潰していく。おまけに呆れるほど、がさつ。物が長持ちするはずはない。
男女関係問わず、人間関係において価値観が合う、という事象はきっと単純に説明できるものではない。
相手との相違点は、時に自分を改める絶好の機会となる。
日常生活では、こうした方が良いのだろうなと思ってはいるが、それをやらない、できないという現象がある。
恐らくこういう場合、人は気づかぬうちに「後悔ポイント」なるものを貯めているのだと思う。
私はその無念を完済すべく、すぐに夫側の価値観に付いた。
質の良いモノにお金をかけると、
それに一層の愛着を感じ、さらには、気分も良くなることを学んだ。
驚いたのは、結婚指輪だ。
何の話し合いをするわけでもなく、もちろん衝突もなく、気づけば結婚指輪を手作りしていた。
交際半年を前に、指輪を作りに行ったのだ。
ふらふらと、銀座の街を歩いていてringram(指輪が手作りできる店)を見つけた。
「作っちゃう?」
衝動買いのような決め方だった。
実際のところ、学生カップルでも手が届く価格帯だ。
それでも私たちは、指輪を作るという体験(コト)にときめきを感じた。
それぞれが互いの指輪を作るのだ。
儀式的ではないものの、自分が作った指輪を渡す際に指輪交換のような心地がした。
今でも、それを着けた指を見るとあの時のことを思い出せる。
私を思って作ってくれた、ってなんだか嬉しいではないか。
そういえば、初めてのデートでは陶芸をしていた。
この時、もちろん交際は始まっていない。
カップルではない二人が初デートに陶芸をしている、
その状況がなんとも楽しかった。
お金の使い方が合っている、と率直に感じた。
結婚生活が進むと、大きな買い物もあるが今のところ衝突はない。
金銭の感覚は、十分に結婚の決め手となるようだ。
マッチングアプリの出会いが結婚に直結すると踏んだ
さて、
できれば、三年前の話から始めたい。
これからリアルタイムに出来事を更新していくためには、少々前提の話があった方が進めやすい。
決して、タイトルであなたの目を引きたかったからではないが---
もし私と同世代の女性が読んでくれているのであれば、何か役に立てるかも知れない。
そんな淡い期待を抱きながら書いてみる。
率直に言うと、私は常から男性に困らないタイプだった。
気になる人がいればそれとなく自分からアタックして、気づけば「良い感じ」になっているような、そんな経験が多い。
決して、容姿がいいからではない。
ただ、ノリが良いのだ。
そのノリの良さは、一部の男性から見ると「都合よく使えそうな女」だったのだろう。
そう、安心してほしい。男性に困らず楽しめていたが、客観的に見るとただ遊ばれているだけだった。
どういうわけか、社会人になってからの数人は蓋を開けると彼女がいた。
「(彼女と)別れようと思っている」そう、匂わせている男だ。
私も浮気相手を好んでするような馬鹿ではない。
我にかえり、関係を断つと面白いように男たちは彼女と結婚していった。
結婚前の最後の楽しみ(足掻き)
それに使われたんだろう。
私はノリが良いので、それらを遠くから笑って祝福した。
この通り、実生活で出会う上で壊滅的に男運がなかった。
自分を責めるなら、見る目がない、遊べる女と思わせている、とも言える。
母子家庭で育ったことも関係するのか、昔から結婚願望は強い方だった。
どうせ付き合うなら結婚まで考えられるか、とまずは妄想してみて付き合っていた。
にも関わらず、この有り様。
そこで、マッチングアプリが登場するわけだ。
今の時代、マッチングアプリで出会い結婚まで至るケースなど珍しくもないと思っている。
だが、「アプリ無くして今の幸せなし」である私にとってここはしっかり文字にしておきたいものだ。
夫との出会いは、Dineだった。参考にしてほしいだけで、別に宣伝ではない。
食事前提で、会う日程調整やお店の予約までアプリが手配してくれる。
私の検索条件は、同じ出身地、同じ年齢、会社員。
あとは、顔の好み、チャットやLINEのやりとりをして違和感がない、であればOKという感じだった。
近頃では、マッチングアプリでの出会いが事件に発展しているケースも少なくない。
リスクを冒して会うのだ。実際に会うまでのハードルは高めに設定していた。
Dineで2人目に会った人が、夫だった。
そもそも同じ出身地、同じ年齢というだけで親近感がある。
会ってそうそう、「友達」のような気持ちで話を始められた。
当時の私は仕事人間だったので、仕事観が合っていたことに勝手にお酒が進んだ。
食事の好みや酒のスピードも合うように感じる。
話をしていて何の違和感も感じない、それが第一印象だった。
上京して仕事をしていた私たちは、いづれ地元に帰ることも視野にあるというような話から結婚観も少々語った気もする。それも見事に合致していた。
そこから、5回デートをした。
鎌倉や横浜、ドラマの主人公にでもなれたようなデートだった。
ノリの良い私は、今までにちゃんと「女性扱い」をされてこなかったことを彼に学んだ。
「男友達同士で接するような雑さ」のない、常に優しさと温かさを感じられる対応だった。
だからこそ、彼は私が今まで好きになってきたタイプではなかったので、このまま付き合うコースで良いのか正直戸惑いがあった。
彼からは、「危険」な匂いが一切しないのだ。
ただ、4回目のデートが終わってからは少々落胆していた。焦り、もあったかも知れない。
告白はおろか、手を繋ぎもしないのだ。
いや、付き合っていないのだからそれが当たり前なのかも知れない。
これまでの男であれば、3回目の前後では何かしら手を出してきていたように思う。
つくづく、過去の私のスタンダードが笑えてくる。
私が落胆したのは、過去との比較だけが理由ではない。
4回目のデートはクリスマスだったからだ。
周囲はカップルばかり。私たちだって当然、カップルだと思われているだろう。
私の心情とは裏腹に、
当たり前のように食事を終え、改札越しにまたね、と手を振る彼。
帰っていく彼の背中を見ながら私は、渡す機会を失ったクリスマスプレゼントをどうしたものか、と迷っていた。
つまりは、私だけが用意したプレゼントであることをご理解いただけるだろう。
付き合ってもいないのにプレゼントをする、という状況に重く受け取られないような「ちょっとした」ものを非常に悩んで選んだものだった。
迷いに迷って、消えた背中の影を追いながら、渡すものがあったんだった!と電話した。うっかり忘れていた、という下手な演技をして。
ギリギリ電車に乗り込む前だった彼が、再度改札に戻ってきてそれを手渡した。
自分だけが準備したという勘違いな状況に、赤面レベルの恥ずかしさを感じながら。
彼は自分が用意していないことを申し訳なさそうに謝りながら、笑顔で受け取ってくれた。
そして、またホームに消えていった。
ここでも私は、
やっぱり告白はないんかい!と叫んだ。心の中で。
嗚呼、私だけの勘違いデートを繰り返していたんだろうか。
とはいえ、私の依頼で毎度割り勘で過ごしていたし騙されている感覚もない。
もしや、同性にしか興味のない人で私は「友達」でしかないのか?
いろんな可能性を考える寂しい家路だった。
と、まあこれは今では二人の笑い話である。
彼も彼でどのようなシチュエーションで言うか迷っていたようで、5回目のデートでは、しっかり決めてくれた。
実はその日も恋人のような最高のデートを楽しんだものの、太陽が沈みかける頃合いになっても、一向にそのタイミングが来なかった。
もう、こうなったら自分から告白しよう。と心に決めていた。
その矢先に、
海、夕日、二人の影の中、またしても私をドラマの主人公にしてくれた。
おそらく、私がこの人と結婚すると決めた理由は
この人と一緒にいる時の自分が好きだから、
である。
彼との時間は、素であり、女性であり、可愛く居させてくれる。
自身の母親以上に身を任せて甘えることができたのは、この人が初めてだった。
ここから半年後、私たちは籍を入れる。
---マッチングアプリでの出会いが結婚に直結すると踏んだ
はじめに
ノンフィクションハートフルコメディー
真っ白なカバー紙に聞き慣れた片仮名が並ぶチープな帯紙。
「ふっ、どこにでも転がっていそうな話やな」
と、わざと呟きながら本を手にしている。
Alexaが勝手に再生する名前も顔も知らない歌い手の流行歌を口ずさみながら、
流行り廃りが急加速する今を生きている自分を実感する。
なぜ、こうして書いていこうと思ったか。
それは、今を幸せに思うからだ。
例えを出すならば、週末にイオンに買い物に行くだけで幸福感に満たされる。
幸せの沸点が低く、朝の太陽を感じれば根からポジティブな気持ちが湧いてくる。
理由はたくさんある。
それを書いていきたいと思うわけだ。
何かを経験する度に感情が動く。
そんなとき、世間に発信したい、という承認欲求がウズウズ込み上げてくる。
この衝動が他人よりも大きいのだと思う。
これをうまく満たすための、兎にも角にも自己都合なブログだ。
この感情を文字にしたい、
昔からそういう人間だった。
会社での発信さえも、熱を込めて書くがあまり長文になってしまう。
その熱は素通りされずに誰かに伝播し、「いいね」や「コメント」になって返ってくる。
InstagramやFacebookでは、「自慢」として消費されてしまうかもしれない。
そう感じてしまうのはきっと私だけではないのだろう。
だから、日々の感情をこうして人知れず綴っていこうと考えついた。
根からポジティブ、と表現しておきながらそんな陰気な理由で始める。
小説綴りをすることで、予期せぬ出来事も「お、こういう展開か」と日々を楽しめるといいなと思う。
お付き合いいただきたい。